Vol.55 2012 WINTER

世界を舞台に演奏活動を続けている「マロ」さんが、演奏家として、 また一人の人間として、心に残った人々との出会いを語ります。

マロな世界
第十一話「ごく普通の母親だけど、幼児教育はプロフェッショナル」

 僕が大人になって気付いたことは、子ども達に教えることの難しさ。僕も幼児教育に興味を持ったことがある。小さい子どもが知識を得て、人格形成しながら成長していく時期に関わるのが一番面白い気がしたから。でも、無理だと分かった。両親が教える子ども達の発表会で、「チューニング、手伝おうか」とか優しく声を掛けても、なぜか逃げられる(笑)。ところが、初対面でもすっと子ども達が寄ってくる人がいる。うちの母親がそう。子ども達を教えられるか否かの前に、理由はよく分からないけど、子ども達が寄ってくるかどうかなんだよ。幼児教育が出来るかどうかの差は、まずはそこにある。
 僕は子どもの頃、母親に物事を強制された記憶がない。「勉強は自分のためだから、した方がいいんでしょうね」とは言われたけど。出来ないことに対しても、「なぜなの!」「どうして分からないの!」と問い詰められたりしたこともない。そう言っても意味がないということを直感的に理解している。母親だから片づけなさいとか、小言は多いけど、しょっちゅう怒るということはなかった。ただ……ひとつだけ覚えているのは、幼稚園の頃、ヴァイオリンの弓を真ん中から半分に折られたこと。「ちゃんと練習しなさい」と怒られたのではなく、「あなたに必要な部分は半分だけなのね」って。多分、僕が弓の全部を使って弾いていなかったんだと思う。その子にとって、必要なものを必要な時に、必要なだけ与えることが本能的に出来る人なんだろうね。
 特に感心するのが、まだ言葉の通じない2歳か3歳児との対話。何か特別なことをしている風ではなく、お辞儀したり、手をたたいたり、歌ったり。まるで宇宙人みたいな意味不明の質問に対しても、母は僕には理解出来ない答えを返してコミュニケーションを取っている。ところが、ある日突然、そんなチビッコ達が楽器を抱えて舞台に立っている。母自身にも理由はよく分からないようだけど、うちの両親は共に「子どもの目線になること」と言う。それに、母が教えた子ども達は、止めずにずっと続く。なぜかと母に訊ねても「趣味として続けていくと言っているから」と、答えになっていないような答え。一般的に確率だけで言うと、教育者が長い間教えていると、何人かはプロの道に進めるような才能に恵まれた弟子と出会うことはある。しかし、そうではない人達が趣味として続けようと思うのは、ヴァイオリンは素敵、演奏は楽しいと感じるからであって、それを教えることの方が実は難しいんだよね。
 母はごく普通の家庭の主婦と同じように料理を作り、家事をこなし、いろいろとドジな面もある人。だけど、幼児教育者としては、摩訶不思議なんだけどプロフェッショナル。75歳の今も教えている。


PROFILE

NHK交響楽団第一コンサートマスター/ヴァイオリニスト
iichikoグランシアタ ジュニアオーケストラ芸術監督
篠崎史紀(しのざき・ふみのり)

1963年、北九州市小倉出身。3歳の時よりヴァイオリンを始め、高校卒業と同時にウィーン市立音楽学院に留学。翌年コンツェルト・ハウスでコンサートデビューを飾り、その後ヨーロッパの主要なコンクールで数々受賞。1996年、東京ジュニアオーケストラソサエティを立ち上げ、芸術監督を務める。
1997年、34歳の若さでNHK交響楽団のコンサートマスターに就任。ソリスト、室内楽奏者、指揮者として国内外で活躍する中、2008年、iichikoジュニアオーケストラの芸術監督に就任。このコーナータイトルの「マロ」は二ックネーム。愛称の由来はそのうちご本人の口からお話しいただくことに。

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